足りないものを探すよりも、自分の中の宝を探すということ
実は私も昔はそうでした。
自分に足りないもの、のばすべき、克服すべきものに目を向けて、頑張り続ける、という姿勢でした。
今そこにないもの、に目を向けながら、頑張り続けているとしたら、一度、いつ最近、自分をほめたか、認めたかを振り返ってみると、どれだけ自分に対して優しくしていないかがわかると思います。
今そこにないもの、に絶えず目をむけていると、自分自身が未熟で、現在が不完全のような感覚が存在します。
性格という点からみたら、誰でも未熟な部分は程度の差はあれ必ず存在しています。
例えば、身近な友人や家族のひとりを思い浮かべてみれば、
ここだけは困る!直してほしい欠点があるのではないでしょうか。
困ったところもあるけれど、ありあまるほどの素晴らしい魅力があるので、
その人の欠点も全体の一部として受け入れ、愛を感じていることがわかります。
自分の足りない部分に目を向けてしまう癖というのは、
今の自分自身を受け入れていない、自分を認められない、自分への愛が足りない状態ともいえます。
ではいつからそんなに自分に厳しくなったのでしょう。
自分への愛を少なくしてしまったのでしょう。
今の自分には足りないものがある、という考え方を身につけたのはいつでしょうか。
思い起こして、記憶をさかのぼると大抵、あの時点から、という出来事がひとつかふたつはあったりします。
それが思い当たらないというくらい、記憶がないとしたら、
自分に足りないものを探す習性や習慣が身についたのは、小さな頃かもしれません。
人生のどこかで、今の自分には足りないものがあるという感覚を身につけてしまったのです。
子供のころから、小さなことや様々な行為を褒められ認められながら育った、という人は、自分を受け入れ、自分の好きなこと、自分自身の個性を認めながら自信をつけて未来へ向かっていくでしょう。
それでは、苦手なこと、足りないと思われることを度々指摘されながら、その部分を伸ばすように、親や学校などで言われたことを気にしながら、大きくなった人はどうなるでしょう。
その過程の中でも、別の面で褒めれれたり、よいところを認められながら、ほどほどのところで、自分によくやったとOKサインを出して、自分で自分を認めることをしながら大きくなっていったならば、自分を嫌いになる時期はあっても、おおかた自分に満足して生きています。
自分になかなかOKサインを出せない人というのは、
自分は不完全である、という感覚がいつの頃からか根付いていて、
自分に対して粗探しをしてダメだしをする癖がついているのです。
自分にはダメな部分もあるけれど、たくさんのよいところがある、と心からわかっていれば、自分に対して優しくなれ、時には甘やかすこともできます。
それがわかっていても駄目だと思う部分についつい目を向けてしまうのであれば、
自分の生まれ育った歴史の中を振り返ってみて、
自分が失敗をしたことをおおらかにあたたかく見守ってくれる人、
困った時に厳しいことだけを言わず助けてくれる人、
弱った時に、苦言を言わず、心に寄り添ってくれる人はいたでしょうか。
自分の困ったことよりも、家族の困ったことの方が心配で自分のことが後回しではなかったでしょうか。
心のよりどころが少なく、自分だけを頼りに頑張ってきた時期はなかったでしょうか。
そういえば・・・と思いあたる体験があれば、
その時の体験のときのように、自分に対して厳しく接しているかもしれません。
今の自分は不完全で受け入れられないから、愛するには充分ではない、という思いこみを自分に課しているかもしれません。
そういった思いこみを外すには、足りないものよりも自分の中にあるよいものに目を向けることを意識づけていきます。
例えば、自分の意気地がない、決断力がないところが嫌と思っていたら、
実はまわりの人は、「安心して仕事が任せられる、慌てて適当に進むことがないから、確実に何度も確認をして物ごとにあたってくれる」というように、違う視点でのよい面を評価しています。
本人は、自分の嫌だと思っている部分にしか目を向けていないので、そこに関連した良い面をみていません。
大人になると、人に対して細かな部分はほめなくなるので、人にはない自分のよいところというのは、意識していないとわかりにくくなります。
子供のころから、そういった細かな点をたくさん認めて気づいていけていたらよかったけれど
そうではなかった、と過ぎた時間や経験した悲しい出来事を嘆くよりも、
これからの時間をプラスの方向へと向けていくことで少しずつ変わっていくのだと思います。
by Glaurie | 2013-12-04 17:17 | インナーチャイルド