自分が欠点と思うことを自分の魅力に変えるヒント
今日は、自分が欠点と思っていることが魅力となる理由について語っていきたいと思います。
自分で欠点と思っているところというのは、本人にしたら「直すべきところ」「恥じている部分」のように感じて隠したくなったり、強く欠点と思いこむと、他人に知られたくないコンプレックスになります。
しかしそれはあくまでも、本人からの視点です。
自分が欠点と思っている限り、本人にとっては、いつまでも、足りない部分、改善したい、人にはあまりみせたくない部分になっています。
ところが欠点というのは、ある意味、自分の他の部分に比べて目立つ、際立つ部分でもあり、その人の個性を表している部分です。
自分がいたらない、と感じている部分は、他人にとっては、手助けをしたいと感じる部分だったり、自分が相手をサポートして与えることができる部分になります。
他人である相手が、自分の素晴らしい点を示すことができる部分、凹凸のようにお互いを補える部分でもあるのです。
だから、逆説的な言い方をすれば、自分が欠点と思っている部分を完全になくしてしまったら、他人に、あなたを支える部分をなくすことになります。
日本では特に、小さな頃から、親や学校において、すべてのことがある程度一定水準できるようになることを求められながら育ちます。
ところが、現実の社会は、ひとりですべてをこなすのではなく、お互いが得意分野を受け持ちながら、助け合うことで成り立っています。
欠点というのは、ある意味、他人が手をさしのべることができる部分であり、相手が寄りそうことができる部分、その人が他人のために何かをできる機会を生み出します。
例えば、出不精で、活動的にならなければ、と思っている女性がいたとしたら、
まわりの友人達は、そんな一面を知って、「出かけようよ」と声をかけたり、誘うと気持ちよく答えてくれるのを知って、気軽に誘えて、しかもそれを喜んでくれる、一緒に行動を共にできる女性としてみていてくれています。
男性にしても、そんな女性の一面を知って、連れ出してあげたくなる、自分が何かリーダーシップを取れる一面を持っている女性ということになります。
「行動面に対する欠点という思い込み」という例を出しましたが、性格や得意不得意な部分、という点でも同じことが言えます。
一般的には、「リーダー的」など、肯定的なひびきのある性格の一面であったり、完璧に物事をできることがよいイメージとして捉えられています。
しかし、人のどんな部分をとっても、それは程度によって、ある種の両面をあわせもつのです。
先程の「リーダー的」という性格にしても、程度がいきすぎれば、「人の意向を無視して独りよがりにワンマンに他人を引っ張っていく、従わせる」という一面をもちます。
このように、その人の中で、足りてない、と自分が感じている部分というのは、ある面からみたら、愛らしい点、魅力にうつる部分であり、相手の優位や得意を映し出す鏡のような役割をして、お互いをひきつける働きをするのです。
これについては、また別の機会に詳しく述べますが、
自分が欠点と思うことを隠して、克服しようと無理に頑張るよりも、
自分のそのような部分、弱いと感じるところ、苦手と思うことを受け入れ、恥じることなく
外へ表現して、へんな意地やこだわりや思い込みを捨てて、
前向きにそれに対してどうにかしようと感じていることを伝えたり、努力する姿を示す方が、
まわりにとってもありがたく、相手が手を差しのべたり、情報を与えたり、その人の中の良心や親切さ、能力的な部分を差し出してくれるのです。
自分で欠点と思う部分を受け入れたり、認めていないと、
へんに意地をはって張り合ってみたり、隠そうとして逆に誇示をしたり、他人に対してどこか後ろめたさを感じながら、オープンにできない部分を何とかしようとひとりで頑張り続けたり、
あきらめて他人をひがんだり、嫌味や非難で相手に対応して、自分の隠されたコンプレックスを知られまいとすることへエネルギーを注ぎ努力を向けます。
そんな必要はないのです。誰もが様々な一面を持っていて完璧ではなく、自分が人に役立てること、支えることができること、支えられることを求めているのです。
まわりが助けてくれない、という人は、まずは隠したり恥じている部分に気づいて見方をかえて表現することがまわりの援助を得るきっかけになるでしょう。
by glaurie | 2014-07-11 12:10 | 開業後のつぶやき