奇跡と太陽のハロ
白虹とも呼ばれる太陽のハロー現象写真を友人が送ってくれました。
この写真を見ていたときに、
もし私が実際にこの太陽の光をみたとしたら、奇跡のように感じたに違いない、
ということでした。
その友人は、珍しい虹などをよく見ています。
彼女にとっては、日常のひとコマのひとつで、
私にとっては、「奇跡」になるのだとしたら、
何が違うのだろう、とふと考えてみたのです。
「奇跡」を、日常を超えた、確率的にめったに巡り会うことのない出来事や、
何か神がかり的に、ありえないほどの幸運とするなら、
どんなことが、自分にとっての「奇跡」なのか、
考えてみたくなりました。
思い出していくと、「すごい!奇跡みたい!」と感じたことは、予想外にたくさん出てきます。
では、「奇跡みたい」と感じてることは、遭遇していくと
日常的になって、「平凡なこと」になって、色褪せていくのかというと、
逆の様です。
小さなことでも、奇跡みたいだ、と感動しているうちに、
「奇跡」と思えることに、遭遇する確率が増えていくようです。
なぜかは長くなりそうなのでひとまず置いておいて、
日常の中に、「奇跡」というボックスに、目の前のことをそう捉えていくと、
色んなことが、ひとつひとつのことが、偶然を超えて、自分が生かされている、というような感覚になっていくかもしれません。
逆の例をとって、「不運」というボックスに、日常の出来事の小さな細々を入れていくとしたら、
トーストがこげた、電車に乗り遅れた、などと日常のひとつひとつをアンラッキーに積み上げていったとしたらどうなるでしょう。
いつの間にやら、目につくことは、不機嫌になることが多く、他人の一挙一動にも目障りな部分が目について、気持ちのきりかえが難しくなってくるかもしれません。
誰しも、そんな1日がどこかの時点ではあるでしょう。自分が毎日の出来事に反応して、1日の気分を赤や黄やグレーの様々な色で塗っているとしたら、その日はどんな色合いの絵が完成しているでしょう。
そして、一色で塗られた絵や明るい色の絵が美しいというわけではなく、影の色があるからこそ引き立つ白や明るい色が存在します。
毎日が様々な色で塗られた1日であったとしても、自分が小さな奇跡と捉えた出来事や何かは、光のような効果をもたらしてくれるのでしょう。
by Glaurie | 2016-05-19 21:37