このままでよいという感覚。
庭に一輪だけ咲き始めていた小さな小さなバラ。
以前は、自分に対しての不確かさのような感覚が、さざ波のように、時折やってきてはまた遠のいていく、ということがありました。
今はだんだんと、これでよいのだ、という感覚、あるがまま、今の状態でよしと自分にOKがだせる、その地点で今できることをひとつひとつ積み重ねていけばよいと思えるようになりました。
以前昔あるとき、この人はまわりからの承認をもらえないと、自分に確信がもてないのかしら?と感じたことがありました。
自分にもそんな部分があったのでしょう、確信がないからこそ、まわりからそうだよと言ってもらって安心したい、一人でしっかり立つことが難しいという無意識の感覚なのでしょう。
思えば、自分がやろうとしたことを、家族や身近な人から反対や批判をされたとき、自分が揺らいでいるときは、まわりの言葉に翻弄されて悩んだり、葛藤したり、反発してみたり。
自分がしっかりと立っているときは、まわりが何といおうが、それをやる、という、ぶれない感覚で、適当にやりすごしながら目の前のことに集中できるようです。
自分自身が自分のよき理解者で、温かく自分のことを見守れるなら、それでよいのです。
自分が自分に対して厳しい親やコーチのように接するのをやめてみたら、とても楽になれるのだと思います。
以前は、自分に対しての不確かさのような感覚が、さざ波のように、時折やってきてはまた遠のいていく、ということがありました。
今はだんだんと、これでよいのだ、という感覚、あるがまま、今の状態でよしと自分にOKがだせる、その地点で今できることをひとつひとつ積み重ねていけばよいと思えるようになりました。
以前昔あるとき、この人はまわりからの承認をもらえないと、自分に確信がもてないのかしら?と感じたことがありました。
自分にもそんな部分があったのでしょう、確信がないからこそ、まわりからそうだよと言ってもらって安心したい、一人でしっかり立つことが難しいという無意識の感覚なのでしょう。
思えば、自分がやろうとしたことを、家族や身近な人から反対や批判をされたとき、自分が揺らいでいるときは、まわりの言葉に翻弄されて悩んだり、葛藤したり、反発してみたり。
自分がしっかりと立っているときは、まわりが何といおうが、それをやる、という、ぶれない感覚で、適当にやりすごしながら目の前のことに集中できるようです。
自分自身が自分のよき理解者で、温かく自分のことを見守れるなら、それでよいのです。
自分が自分に対して厳しい親やコーチのように接するのをやめてみたら、とても楽になれるのだと思います。
by Glaurie | 2013-02-11 16:44 | 開業後のつぶやき